雑談下手/禅への入口

久しぶりの投稿となってしまった。最近はというと今の職場に居心地の良さを感じつつも会話が下手な自分にいらだったりイラストが全く伸びなくなったりで微妙な日々を過ごしている。読書の方は何とか月一ペースで読めてはいるのだが、もう少しペースを上げたいところ。

なぜ雑談が苦手なのか。色々考えたのだが、やはり「他人に興味がない」のが根本原因かもしれない。

一般に会話というのはキャッチボールに例えられる。最初挨拶から始めて、質問と回答、相槌や同意・否定…などを繰り返していくわけだが、私の場合他人に対する質問が中々浮かんでこない。質問をするにしても「そういえば昔あの番組でこんなやりとりをしていたな…と記憶の引き出しから質問をひねり出したりする。それに一般的な「テンポのいい会話」というのについていけない。残念ながら知的障害に近い気もする。皆の前で一方的に話したり、本を読んだりビジネス文書を書いたりするのは平気なんだけどね。今の時代友人は必須ではないとはいえ、会話が苦手というのはやはり人生を大幅に損する要素だと思う。

ちなみに同僚からは上記以外にも「反応が乏しく話を聞いているのかわからず、話を振っていいのかわからなかった」「相手にわかるように相槌打ってるだけでいいんだよ」と言われた。40歳手前になってこんなことで悩んでいること自体手遅れ感あるが、今からでも慣れるしかないだろう。

 

禅の思想では知性は不幸の源みたいに言われることがある。

確かに過去を振り返れば後悔や惨めさが湧き、未来を見れば不安ばかり湧いてくる。知性とは人間が生き残るために獲得したツールなのだ。

ツールは我々を快適に長生きさせてくれるが、幸福にはさせてくれない。というより、感情すらも我々が生き残るために獲得したツールなのだ。不安や恐怖を感じるからこそ我々は危機に対処でき、結果的に生存確率が上がるのだ。しかしそれは幸福とは言えないだろう。

おそらく、ニーチェがあんな状態になったのも、それが原因ではないだろうか。死を知性で理解しようとしたら恐怖でしかないし、どうせ死ぬなら何のために生きるのか、という疑問が当然湧いてきてしまう。

つまり幸福になるには、適度に知性を捨てる必要がある。そのためのメソッドが座禅や瞑想、あるいは浄土門で行われる法会なのだ。これらを究めれば徐々に我や執着が薄れていき、最終的に無我の境地に至る。そういう点で聖道門も浄土門も目指す先や辿る道程は同じなのだ。

 

なぜ唐突にこんなことを書いたかというと、鈴木大拙の「禅」に感銘を受けたのだ。やや難易度は高いが、仏教全体における禅の位置づけや発生した経緯などが理解出来た。