NFTバブルははじけるか
日記のつもりが最近週一ペースになってしまい、早くも存続が危ぶまれるこのブログだが、先週一番の衝撃といえば、東京近辺で発生した地震だろう。
東京都足立区と埼玉県川口市・宮代町で震度5強を記録した。いくら足立区の地盤が軟弱とはいえ、震度5強を記録したのは東日本大震災以来だという。
しかも地震発生時が夜10時40分ということで、鉄道が止まって多くの帰宅難民が発生し、品川や渋谷などのタクシー乗り場には長蛇の列が出来、そんな状況でタクシーが10分に1台程度しか来ないという惨状だった。改めて都心の脆弱性があらわになった。
さて、デジタルデータを販売できる「NFT(非代替性トークン)」。一見何の変哲もないデータに数千万円の値が付く自体となり、色々思うところがあったので、今回はこれについて深堀りしたい。
事前にお断りしておくと、私の理解不足もあってかなりいい加減な内容になってしまったのでご容赦頂きたい。また音声や動画などのNFTについてはここでは対象外とさせていただく。
経済的な価値は需要と供給で決まる。だが、その需要の根本は何だろうか。
アート作品の購入を思い浮かべて欲しい。例えばモナリザの絵自体はネットで見ることが出来る。にもかかわらず、億単位の値段を支払ってまで所有したがる人がいるのはなぜか?
ここで言えることは、
- 所有することに大きな意味がある
- アート作品の価値は虚構である
ということだ。以下に詳しく書きたい。
所有することに大きな意味がある
所有欲・自己顕示欲
近頃はシェアリングエコノミーもだいぶ進んだように思うが、所有欲というものは依然として残っている。これは人類が蓄財を始めた頃から続く人間の本能だから、簡単になくせるものではない。
投資商材
一般的なアート作品は、作家の人気度に応じて価値が変動する。半沢直樹でも絵画を売却して借金を工面する描写があったが、数千万や数億円の値がつくような作品は、投資や資産としての側面が強くなってくる。
これはNFTも同様で、投資や資産分散目的での購入も増えるだろう。上記の動画の二人もそういうことだと思う。
アート作品の価値は虚構である
すなわち媒体が違うだけで、NFT作品も一般のアート作品と同じ性質を持つと言える。
そこでアート作品の価値とは何なのかを考えたい。
日用品から芸術作品へ
なんでも鑑定団を見ていると、古伊万里などの日用品に高い価値がついていることに気づく。
所詮日用品に過ぎないはずの古伊万里に、なぜこれほどの値段がつくのだろうか。
柳宗悦は、高価な美術品ではない「民衆が使う日用品」に価値を見出し、日本各地を巡り収集を行った。
勿論古伊万里にもきらびやかな模様を施した美術品的なものもあるが、民芸運動ではシンプルな絵付けを施しただけの、普通の民家の台所にありそうな、使い古した器までも対象とした。
日用品の「素朴さ」「使い古した感」まで含めて価値を見出したのだ。
かつては雑に扱われ割れれば捨てられる、ありふれた存在の古伊万里だったが、柳宗悦が活動を始めたことで、扱われ方が一変したのだ。
みうらじゅん氏の「ゆるキャラ」ブームも、元々誰も見向きしなかったところに着目し、最終的に「ゆるキャラグランプリ」が開催されるまでに成長した。
誰かの活動がきっかけで、ご当地キャラの扱いが変わったという点では同じである。
長々と書いたが、物の価値というのは実にあいまいなものだ。
誰かが「価値がある」と言えば、本当に価値が上がる。
一方誰かが「価値がない」と言えば価値が下がるのだ。
「価値」と「使用価値」
ここで、もう少し価値について深掘りするために、「価値」と「使用価値」に分けて考えたい。
「使用価値」とは、その物が持っている機能としての価値を言う。
例えばペンなら「書きやすい」「インクが長持ちする」などだ。
一方「価値」とは、人間が考える総合的な価値のことを言う。
同じペンで例えると「有名ブランド製」「高級素材を使っている」「限定品」「有名人が使っていた」など、ペンとしての機能とは関係ない価値を考慮する。
そういう点でいえば、絵画というのは全く使用価値がない。
絵画というのは、物質的にはキャンバスに絵具を塗りつけた物体に過ぎず、日よけや雨除けにしては高いし、映像の記録という点では写真やビデオにかなわない。何にも使えない割りに置き場所も取る。道具としては失格だろう。
では、使用価値のないアート作品がなぜ高い価値を生み出すのだろうか?
それは、人間が「これは価値のあるものだ!」と思いこむからだ。
上記の通り、人間の価値基準は非常にあいまいなものだ。
乱暴な言い方をすれば、アート作品の価値は「虚構」といえる。
「これはいいものだ」という人が多ければ価値は上がり、そうでなければ価値は下がる。
ピカソの実験的な作品だってそうだ。もしあれを「近所の小学生が描いた」と言ったら100円でも買う人はいないだろう。
「ピカソだから売れる」という向きもあるだろうが、もし有名人が「ピカソはゴースト作家を雇っていた」などと嘘を言いふらしたら、それだけでピカソそのものの評判が下がり、作品の価値も下がる。
作品の価値というのは、それくらいあやふやなものだ。
現代アートバブル
では、NFTはどうだろうか。
上記にも書いた通り、NFTはデジタルデータを一点もののアート作品のように扱える技術である。媒体が異なるだけで、両者の共通点は多い。
だが今は「NFT」というだけでもてはやされている感は確かにある。「NFT」という目新しい技術によって「現代アート」が注目され、結果的に現代アートブームが来ている…という流れではないかと思う。
ただ、NFTがある程度浸透すれば、目新しさによる効果は消え失せ、バブルも終わるだろう。
NFTそのものは「場」であり、「作品を売る手段」の一つに過ぎない。いくらNFTという新しい販売手法が生まれても、売れない作家は売れないままだ。現代アートは作品としての純粋な質を求められるだろう。
以上長々と書いてしまったが、クリエイター的には「作品販売手法」と「投資商材」が一つ増えた、という程度に考えた方がいいだろう。