人新世の資本論に関する疑問まとめ(暫定版)

昨日は中秋の名月だったらしい。しかも8年振りに満月となったようだ。帰宅途中見事な満月を見ながら走ったのだが、そう考えると感慨深い。

 

さて、個人的に感銘を受けつつダラダラ読んでいる「人新世の資本論」。良い点も多々あるのだが、せっかくなので反論というか、気になったところをまとめてみた。まだ最後まで読み終わっていないので、あくまでメモ程度に止めておこうと思う。変なところもあるかもしれないが、所詮メモということでご容赦頂きたい。

 

なぜこれほど売れたのか?

本書は資本論解説書の一種である。資本論といえばとにかく難解で、その解釈を巡り様々な学派が誕生した。本書は晩年のマルクスの思想に着目し、環境保持と脱成長コミュニズムを打ち出している。筆者いわく、これまで誰も主張しなかったことらしい。

普通ならこんな堅苦しい本が売れるはずがないのだが、本書は2020年新書対象を受賞するなど異例の反響が寄せられた。これを起点に新しい資本論学派が誕生するかもしれない。これは素直に凄いことだと思う。その背景には、資本主義に限界を感じる人が増えたこと、また環境意識の高まりがあると思われる。

知っての通り昨今は所得格差も広まり、富裕層に対して向けられる憎悪が増してきている。否、「叩ける人を叩く」といった方が正確かもしれない。某メンタリストも未だに活動再開出来ていないようだ。彼自身いじめを受けた経験があるそうだが、昨今の有名人叩き・富裕層叩きはイジメに近いと感じる。大の大人がいじめをしているようでは、この世からいじめなんて絶対なくせないだろう…と、少し脱線してしまった。

更には大規模な気候変動による猛暑やゲリラ豪雨の頻発により、多くの人が環境を意識せざるを得なくなってきている。本書はこれらの思想と見事にマッチしており、多くの支持を得ていると考えられる。

 

データは本当に信用できるのか

まず最初に明記しておきたいのが、データはいくらでも切り取れるいうことだ。都合の良いデータだけ切り取って「ほらこういうデータが出てますよ、私の言う通りでしょ?」という説明は私もよく耳にする。

例えば、経済成長を維持しつつ二酸化炭素排出量を減らすことを「デカップリング」というらしいのだが、本書ではデータを用いて「デカップリングは不可能だ、脱成長経済しかない」と主張している。だが、本当に十分なデータが出されたか?といえば若干疑問が残る。

悪魔の証明という概念がある。「ない」ことを証明するのは「ある」ことを証明するよりもはるかに難しい。「ある」ことを証明するにはどれか一つでも事例を出せば済むが、「ない」ことを証明するには、あらゆるデータを調べ尽くし、この世界のどこにもそんな証拠はないと証明しなくてはならないからだ。

本書もデータを用いて展開していくが、どれだけのデータを調べたのかが分からない。もちろんすべてのデータを出せというつもりはない。「ここはこういう理由があるから、このデータだけで十分なんですよ」という説明が欲しいのだ

 

消費形態の変容-脱物質化-

続いて消費形態の変容について検討してみる。

まず、今は「脱物質化」、すなわち「モノ」の価値が低下してきている。そもそもモノの価値とは何だろうか。昔は貧しい生活を送る人が多く、その貧しさや不便さを解消するためにモノを欲したのだ。

例えば昔は掃除も洗濯も全て人力で行っていた。そんな不便さを解消するために、人々は掃除機(掃除ロボット)や洗濯機という商品を欲した。

昔は高性能な商品は高いのが当たり前だった。だが、今はコモディティ化により安くて質のいいモノが手に入るようになり、現代人はそこまでモノを欲しなくなった。その代わり「体験」や「コンテンツ」といった非物質的商品の価値が上がってきている

体験やコンテンツという商品の価値は、二酸化炭素排出量とほとんど関係ない。映画やアニメなどのコンテンツはコストをかければ売れるというわけではないし、コンテンツの価値は二酸化炭素排出量と無関係だ。

近年アメリカの二酸化炭素排出量が減少に転じたが、これはモノの消費が減ったからだ。その代わりネットコンテンツの消費が増加している。例えばスマホで映画が見れるなら映画館に行く必要がなくなるし、テレビも要らなくなる。車を使わない分二酸化炭素排出量も減る。

ちなみに天目茶碗が相当な値段で落札されたというが、アートや文化も二酸化炭素排出量と無縁の商品だ。これらの価値が見いだされれば、二酸化炭素排出量を減らしつつ経済成長させるデカップリングは可能ではないか?と思うのだ。

思うに二酸化炭素排出量と経済成長が比例するという考え方は、工場でモノを大量生産するモデルを前提としているのだと思うマルクス資本論も本書で扱うデカップリングの議論も、これを前提としている。だが上述の通り今はモノの価値が低下し、第二次産業従事者も減っている。そういう点から言っても、モノの生産を前提とした議論はやはり「古い」と言わざるを得ないのでは?と思うのだ。マルクスはyoutuberなど考えもしなかったのではないだろうか。

 

チートプレイするアフリカ

それから、本書は技術革新では環境危機を乗り越えられないとしているが、ここも若干気になるところだ。

現在アフリカ諸国は治安回復によって都市化が進み、徐々に経済状況も上向いている。それに合わせて平均給与も上がり、家電も普及してきている。かつて日本が経験した高度成長期に入ったと言ってよいだろう。となると、心配なのは二酸化炭素の排出だ。普通に考えればアフリカの工業化に伴い大量の二酸化炭素が排出されることが懸念される

 

日本が高度成長期だった頃は、ロボットなどの自動化技術や、インターネットなどの情報通信技術は存在しなかった。また環境に対する意識も低かった。それゆえ当時の日本の都市部や工業地帯では環境汚染が深刻化し、環境意識の低さもあいまって大量の二酸化炭素が排出されていた。また、遠方で会議を行うとなれば夜行列車やフェリーで何日もかけていく必要があり、その過程で多くの二酸化炭素が排出されたわけだ。

だが、今や簡単な打ち合わせならZOOMで済むようになった。すなわち、日本は高度成長期から数十年の歳月を経て少しずつ効率化が進み、エコな社会に近づいていったわけだ。

だが今のアフリカは高度成長期にありながら既にスマホやインターネットといった効率化ツールを手にしている。日本やイギリスと違って、アフリカ諸国は最初から便利で環境にも優しい技術を使える状況にあるのだ。平たく言えば、アフリカ諸国は最初から特殊アイテムでチートプレイできる状態といえる。

 

そもそも日本は明治維新と戦後の2度、高度成長した時期がある。そのいずれも先進国から最新技術を導入したからこそ、あれほど短期間で急成長したのだ。アフリカの成長速度はそれを優に超えるはずである。また上述の通り日本でも公害や労働問題が発生したが、これは産業革命期のイギリスと比べればまだマシだった。産業革命初期の労働者は、休日どころかろくな睡眠時間すら与えられず、命を粗末に扱われていた。そんな壮大な人体実験を経て確立された仕組みが「8時間労働・週休制」だったのだ。日本は早い段階でそのノウハウを獲得したため、イギリスほど深刻な労働問題は発生しなかった。現代は環境や効率化に関するノウハウが蓄積されているため、アフリカは日本以上にマシな環境で成長できるだろう

更には中国をはじめ世界各国がアフリカに投資しており、これら先進的な生産技術を導入しやすい環境にある。

以上を考慮すると、アフリカはエコかつ効率的な手段で経済成長できる可能性があり、実はデカップリング可能なのでは?とも思えるのだ

 

富裕層の意識変化

また富裕層は低所得層と比べて二酸化炭素排出量が多いとの指摘があるが、近年の富裕層は環境意識の高まりや脱ブランド品の流れを受け、質素な生活を送る富裕層が増えているように思う。SNSの炎上リスクも一因と考えられるが、少なくともエコはクールだという認識が広まっているはずだ。ちょっと偏見かもしれないが、むしろ低所得層の方が浪費に無頓着な気がしないでもない。

 

最後に、本書は資本論を全く新しい切り口で解釈する本と銘打っているが、同じ解釈をした人が本当に他にいないのか、その辺も知りたいところだ。ひとまず今気になっているのはこんなところである。